旅行に行くと、ここに住んだらどうなんだろう。って考えます。
pakapakaumaです。
住みたいまちって何でしょう。
訪れたいまちって何でしょう。
旅行に行くと、それなりに観光地を楽しむのですが 毎回「ここに住むことになったらどんな生活をするだろう」ということを考えたりします。
賃貸はどんな感じなんだろうとか、生活に必要なものは揃ってるだろうかとか、音やにおい、落ち着いて生活できるか…とか。お隣さんはどんな人だろうかとか。
あとは、毎日この景色を眺めるのかっていうのも。
最近は旅行ではそういう楽しみ方をするようになりました。
珍しいものを拝みに行くことが重要視されがちですが、その先にある本質は 自分が住んでいるところとは違う空気感を経験しにいくこと。他の誰かが生活しているまちに訪れること、つまり生活を疑似体験しに「一瞬だけお邪魔しにいくこと」だとここのところ感じています。
静かな住宅地に住んでいると、観光地やビルの建ち並ぶ繁華街で生活することがどういう感じなのかいまいち想像できません。 多分、経験が無いからそういうところに旅行で訪れたいと思うのかもしれません。1泊2日でもいいから。
でも、そうやってお邪魔させてもらっても そこに住もうとならないのは やっぱり「住みたいまち」と「訪れたいだけのまち」に気持ちの上で区分されてしまうからなんでしょう。
そんなとき、知らず知らずのうちに今住んでいる場所だったり、住んだことのある場所だったりと比較している自分に気付きます。全く別の場所なのに。いや、全く別の場所だからなのか。
どんなに絶景があっても、どんなに最先端の流行が揃うところでも 住むのと訪れるのとでは全く異なりますので。
住み、生活することと、その時だけ気軽な気持ちで訪れるのとでは見えるものの重さが変わってきます。
その結果、ここは旅行だけでいいや とか ここなら住んでみたいかもしれないとか。身勝手なことを考えるんです。
たまに見る孫がかわいいご老人のように、特別なものは特別にしておきたいというわがままな気持ちもあったりするんでしょうし、生活していないから特別な場所にも見えるんでしょうし。
これくらいの距離感が観光地を観光地たらしめているのかなぁとぼんやりと思います。同時に多くの人が住みたいと集まるベッドタウンがベッドタウンであるのもそうなのかもしれません。
帰る場所があるから旅行ができるというもの。どちらも存在して丁度いい。旅先の目新しさを感じられるのも、住んでいる場所の居心地を確かめられるのもそのおかげだからなんでしょうね。
ただ「訪れたいまち」にも確かに誰かが住んでいるから訪れることができるんですよねぇ。自分の立場が逆転したときに何を思うんだろうかと考えれば落としどころが見えなくなってきます笑 まぁ、たらればの話なんで。
すぐ隣の街はどうなんでしょう、住みたいまちなのか、それとも訪れたいまちなのか。
●記事のトップ画像
2020年1月18日
撮影地:大府市 桃山公園展望台