20210124_気持ちと理屈と矛盾とその狭間で。

暇なのでこれについて書いておきます。名の無い人間ですので、自由に語らせていただきます。

pakapakaumaです。

ブログで扱う内容について受け手の方々は様々な感想を持たれることだと思います。
知多半島の風景という内容で、あれやこれやを書いていますがもしかすると内容によっては「こんなマイナスな要素書くなよ」って思われる方もみえるかもしれません。でも、これをやっているのには理由があります。

部分的に書き起こしているだけなので、欠損している考え、矛盾もあります。まずその点ご承知おきください。

今日はそんな話。


 


■対極にあるもの

この頃は物事の良い側面を上昇させてていくことが急速的に流行っているようです。
美しい、楽しい、わかりやすい、感動する などなど。そういったものを完全に否定もしませんし、手放しに肯定もしません。でも、その面(プラス要素)のみだけがあるわけが無いんですよねぇ。その対極にある、いわゆるマイナスの要素があるからこそ美しいとか思うのだと。プラスというものはマイナスがあって成り立つはずです。

これを概念の世界では「二元論」と呼んでいたりします。誤解のないように付け加えるならば、前提として「多元論」的な考え方で自分は動いていますので、あらゆる在り方を容認したうえでのことです。

では、先ほど書いた「美しい、楽しい、わかりやすい、感動する」といった事柄の対極にあるものは一体何かといえば、「醜い、つまらない、わかりにくい、失望あるいは落胆」という感じです。これは改めて言うものでもなく、対義語で検索したら目にすることのできる内容です。

多くの場合、このあたりのマイナス側の点は「見なかったことにする、見ない、見えない」ものとされ、その反動としてもう一側面が誇張されていきます。マイナス面なんだから良さなんて無いし、嫌われる。見る必要も発信する必要もない。そんなマイナスなんかあるはずがないって…。そうしていったとき、我々は一側面を食い潰します。プラスという限られた一側面の範囲内で 作り、消費し、奪い合います。これは疲れてしまします。

おそらく、これを続けていったならばプラス要素だけで考えられる事柄は枯渇します。既出のアイデア、考え方、方法をもとに擦り切れるまで回し続けられることになります。簡単にいうと、マンネリ化です。短絡的な人真似や、流行りの表現が一瞬で消費されていく現象もこれに当てはまると思います。そのあたりを説明されているnote記事を見つけましたので、自分は省略します。このnote記事には同感です。

自分は、知多半島の景色というテーマ内においてはなんとかその「プラス要素のマンネリ化」にストップをかけたいと思う訳です。もちろん、自分が最近やっていることに関しても究極には既出の方法や考え方ですから、何ら新しいものではありません。他の地域ではもう試みられたものかもしれませんし。

では、方法と考え方がどう練っても既出なのであれば あとは「アイデア」の段階の次元でものを考えなければなりません。既出の方法と考え方を「アイデア」の実現の為に使用したという構図です。

そこで、マイナスの部分にも目を通す必要が出てきます。なぜならば「多くの人が見なかったフリをする」対象だからです。そして、「変えることができる素材」としては放置されているからです。これほど手を付けやすいものはありません。ここで補足しておきたいのは、マイナス要素を賛美するものではないということ。あくまでも素材のひとつとして見ているということを付け加えておきます。

※マイナスをプラスにしたときにマイナスがマイナスとして存在しなくなりますから、二元論の前提からすると矛盾が発生するような気がしますけども笑 マイナスの枯渇、プラスがプラスとして説明できる根拠の一つが無くなってしまいます。これも課題のひとつです。

■プラス要素っぽいものへの変換

ここで「っぽい」と書いたのは、もともとマイナス要素であるものを 自分がどれだけこれは「プラス」だって叫んでも結局は受け取る方々がそれを判断するからです。完全なプラスになる一歩前には「~かもしれないもの」があります。まずは完全なマイナスから、マイナスではないかもしれない、けれどプラスとも言い切れない「っぽいもの」を提示していく必要があります。

変化させるためには「相手が判断する基準」を揉み解していく必要があります。NoをYesにするための理由付けと根拠の提示です。理由と根拠があれば言い切れるのかというと、そうでもないところはありますが。

まず、よく知られている「相手を変える方法」の一番簡単な方法ですが、マイナスだと叫ぶ者に対し攻撃し、言い聞かせ、負けを認めさせることです。でもこれはあまりにも短絡的すぎますし、相手が目を閉じ耳をふさいだならばそこで終了です。穏やかにマイナスをプラスに変化させるというのは、極論ではマイナスであるという考えを持つ方々をどうしても「変える」しかありませんが、ここには「対峙しないように、対峙しながら変える」という矛盾のようなものがあります。

直接的に攻撃せずにその受け取り方を空気感として変化させるには、「っぽい」というフワフワした掴みどころの無い表現にすることだと考えます。「●●である、それ以外無い」と100%確定しないことです。余白を作ります。ですので、自分のブログではよく「かもしれない」という書き方をしています。感想や考えの面では。読む方によっては逃げだと感じるかもしれませんが、数ある考え方から発する気持ちに対してのリスクの低減にあたります。100%気分を害することなく、なんとなくそうかもしれないと感じてもらえるように努めなければなりません。これはある意味「洗脳」にあたるのかもしれませんが笑 

その根拠を探す、あるいは根拠を意図的に作る過程の中で、目の前に見えるものを直視することになります。

まずはすぐに出てくるイメージと、その根拠。そしてそれの反対にあたるイメージと根拠を可能な限り挙げます。もちろん、その中間にも見えにくいイメージが存在します。あとは何故それが根拠となるのかを答え合わせしていく作業となります。

ブログ内の撮影記録はまさに、そのパーツを構成していく作業にあたります。
良いと言われているものが何故良いのか、悪いと言われているものが何故悪いのか。
良いものに隠れて悪いものが出てきていないだけなのか、悪いものと言われていることは変換できる可能性は無いのか、それをパーツとして構成していく流れの中で批判を恐れているだけではないのか。そういったことを撮影記録という表向きの公益のようなモノの裏で取り扱っています。

確実な解とは思いませんが、まずはその根拠の一部を記録していくということが撮影記録の裏テーマにあったりします。いままでの記録であーでもないこーでもないって語ってたこと、単なる批判や皮肉、管理人が思い通りにやれないことの葛藤から出てくる自己中な感想に見えましたでしょうか。そのようにしか受け取られなかったのならば、自分の説明が不足していた証拠でしょう、そうであれば大変申し訳ありません。

ただ、そう感じられたのならば、その根拠も同時に出てくると思われるのですが、いかがでしょう。そして、あなたならその根拠に対してどのように動かれますでしょうか。

■気持ちと理屈と矛盾とその狭間で

では、ここまでに書いてきたことを単に文字に起こして書くだけでよいのかというと、そうでもありません。それはそこに行動が伴わないからです。

物事に対して意見を言うとき、口だけの奴という批判は必ずどこかでわいてきます。
ですので、自分の場合は表向きな表現・行動のひとつとして写真・動画という分野でモノを作ることをやっています。中身はなかなか伴わないのですがね。

一応、自分は言いたいことを伝えるのひとつの手段として、浅く見れば公益に繋がる可能性のあるものを作成していますよと。ブログで伝えたいことの表向きな表現として「なんちゃって風景映像」を作ってますよと。受け手がそれについてどう感じられるかはさておき。

 

写真はブログのみにしか使用していませんが、裏テーマのことは隅にやっておくならば「今の知多半島の写真」が蓄積されることになるので、その部分の公益性くらいは残ると思ってますし、そこを入口としてこういうモノの見方をする人間も居るんだっていうひとつの判断材料としていただければとも願っています。

youtubeにアップロードした動画に関してもその入口にすぎません。
単にきれいな景色をきれいに撮ることにだけ重点をおいたものではなく、それにリンクする形としてこのブログの文字たちがあります。景色の動画のみに興味を抱く方がみえたのならば、それもひとつですし撮影方法に興味を抱く方、このような想いに関して興味を抱く方がみえたのならば動画説明欄のリンクを踏んでいただけることでしょう。

 

気持ち、理屈、根拠には矛盾が発生する訳ですが、その狭間で動画とか写真を使いながらあーだこーだやっている訳です。で、ここまで書いてきたことっていうのは別段新しいことでも無いんです。これは新しいことだって思いあがっている勘違い野郎ってわけでもないのであしからず。それくらいは理解しています。

じゃあなんでそんなことを書くのかっていうと、単に説明に必要だから書いたまでの話です。こういうのは、やり続けられる人と採用する人が極めて少ないだけなんですよ。

 

なんとなーく理解していただけたでしょうか…。まだまだ他にも言いたいことあるんですけど、それをここで全部扱うと矛盾に対する説明で横道逸れてっちゃいますので、今回はこのあたりにしておきます。

 

 

そんなことを書いていて思った、ちょっと表向きには言いにくい話。
これに関しては書こうかどうしようか散々迷ったのですが、いい機会なので。

仕事としてこういった分野に関して書く、あるいは作る場合 発注者の意図に沿ったものでなくてはなりませんし、あまり作り手が主観的にこう思うと書くことができない側面があると思います。ローカルな話題に関してだけいえば、その発注者の主な層は行政です。
行政がGoを出す企画は大抵、過去に成功した事例・良い側面を誇張した内容に終始します。例えば若者が多数利用しているからinstagramを使うとか。二番煎じのアウトプットをずっと行っている構図です。こういう前例みたいなのやりたいから作ってって笑

そこには発注者・作り手の間で双方の利益が確保されているように見えますが、欠落しているものがあるとすれば、それとは異なる考え方・アウトプットがその構造の中でなかなか出てこないという点。そして、そういう構造に対しての指摘を 一般の民がご意見箱などに意見を突っ込んだところで即何か起こる可能性は極めて低いものと思います。
このあたり、作り手はまあそういう仕事だから仕方ないとして、発注者の考え方はそろそろ前例というところから抜け出す覚悟も必要なんじゃないかなって思います。
どうでしょう、発注者さん。トップダウンで物事を変えることができる権限を持ってみえる中で流行りに身を任せていて大丈夫でしょうか…。楽なのはわかりますよ?楽なのは…。

これに関しても恐らく説明が足りませんし、前例の二番煎じという部分に関しては自分がやっていることに対しての矛盾が生じます。これに対しても長々と説明が必要なのかもしれませんねぇ。結果的にそうであるのに、それでも何でやってるのかって部分を。

部分的にそんなふうに感じていますって程度にこの話はシメたいと思います。

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